合唱団あき

詩が訴えかけるもの

場所:北生涯学習センター
印象に残っているのだが、聞いてからかなりの年数が経っているので、かなり記憶があいまいな話である。記憶によれば文化放送での朝の番組だったと思うのだが……ちがうかもしれない。そのくらいあいまいな話である。裏づけ調査でもすればよいのだが、生来のものぐさで、そんなに熱心に調べたわけではない。そんなわけで本当の話なのか気になるところではある。そんなわけで以下の内容に関して間違いがあったときには、自分の不明をお詫びするのみである。
半跏思惟像という仏像がある。弥勒菩薩という仏様が腰掛けて片足であぐら?をかいている。歴史の教科書や資料集にも写真が載っていて、有名なのは京都の広隆寺・奈良の中宮寺の像である。美しい像でファンも多く、私の職場にはこの仏様の写真を机に飾っている人もいる。殊にあごのところに添えられた指先、にっこりと優しく微笑んでいるお顔は私も美しいと思う。
釈迦入滅の56億7千万年後に現れて衆生を救うとされており、それまでの間、あのお姿で「どうやって衆生を救うか」を考えておられる。憎しみあったり傷つけあったり、自分の煩悩に苦しめられたり・・・そんな人類を救うためにそんなに長い間考えてくださっている・・・・・・。そう思って見ると余計に美しい弥勒様である。あのにっこり微笑んでいる表情は、その方法を考え付いた瞬間をうつしとったものだと聞いたことがある。
さて、広隆寺には、その有名な半跏思惟像とは別に泣き顔の半跏思惟像がいらっしゃるらしいのである。その私の聞いた記憶のあいまいな話の中では、その泣き顔の弥勒様は衆生を救う方法を考えていたが、どうしてもその方法が見つからず、いよいよ泣き出してしまっているお姿なのだそうだ。その話を聞くまでは単に「美しい仏様だな」ぐらいの感想だったのだが、とたんに別の魅力を感じるようになった。われわれ衆生の救う方法を考えてくださっている、泣くほど真剣に、56億年もの間・・・・・・。
拝見したいなとは思いながらも、生来のものぐさ、実現してはいない。図書館で仏像の写真集を開けばお会いできるであろうか。
今日、合唱団あきで練習したのは、コンクールの課題曲、それと自由曲である。今年の自由曲は「初心のうた」(木島始 詩 信長貴富 曲)である。この木島始さんの詩には考えさせられる。平和への渇望とそれが真に実現されないことへの失望と・・・うまくいえないがきれいごとを並べるのではなく平和を求めてあれこれ模索している詩のように思える。歌っていて思い出したのが前述の弥勒様の話なのだ。平和は棚の上のぼたもちのようにどこかからポトンと得られるのではなく、常に求め、作り出そうと努めるものなのだろう。ただ、本当に人類が平和に暮らせる時代が来るかという問いに自信を持って答えれる人は・・・否定的な答えを自信満々に答えられる人はいるかもしれないが、実現が難しいことは言われなくてもわかっている・・・・・・・・・・・・でも、求めなければ得られないよな・・・・・・。
合唱団あきとしては久しぶりのピアノがガンガンついた邦人曲である。ピアニストもガンガン弾いてくれている。アカペラもいいけれど、やっぱりこういう曲はうたっていて気持ちがいい。気持ちいいからこそ、詩が訴えかけようとしているものを見失わないようにしないといけないのだが。
図書館に行って、仏像写真集を探してこようかな。
(文責:雲竹斎)